第一章:白い影

芝生と歩道を照らす街灯の下を、グレーのパーカーに身を包んだ男が通り過ぎた。

エンゾは一人、寝静まったキャンパスの中を走っていた。二拍ずつ息を吸って吐きながら、胸に直角に曲げた腕を後ろに振り、その勢いを利用して足裏全体でアスファルトを蹴っていく。

左手に広がっていた闇が、すぐ校舎に取って代わった。レンガ造りの建物は、街灯のわずかな光を浴びて歴史的な威厳を放っている。二十世紀前半に建てられたもので、この国は地震がないから、今も当時の様子を保っている。校舎は高い壁のようにエンゾを見下ろしていたが、エンゾは見向きもせず、体の動きに意識を向けていた。入学して三年半が経つが、エンゾはほとんど校舎に入ったことがない。エンゾの居場所はキックボクシング部の練習場だけだった。

左腕に着けたスマートウォッチを見ると、夜中の一時半を過ぎていた。寮を出て三十分になる。イライラして寝付けず、体を疲れさせるために走っていたが逆に冴えてきた。時計の画面をタップすると一キロあたり三分五十五秒、心拍数百五十八、というデータが表示される。視界を上げると前方に男子寮が見えてきた。もっと追い込める。エンゾはペースを上げていく。

快調なペースで走り切り、そのまま男子寮の隣にあるスポーツアリーナの中に入っていった。この建物も校舎と同じレンガでできていて、一階に大小の体育館が一つずつあり、二階は運動部員専用のトレーニングルームになっている。エンゾは誰もいない館内に入ると、天窓から差し込む微かな明かりを頼りに階段を降りていった。そして非常口の看板の青い光を頼りに、まっすぐに伸びた通路を進み、一番奥にある扉を開けた。




電気をつけると、目が覚めるほど白い光が一瞬にして広がり、練習場が姿を見せた。コンクリート打ちっぱなしの壁の中で、青色のリングや使い古されたサンドバッグが姿を見せる。パーカーを脱いで裸足になると、奥一面に貼られた鏡越しの自分と目が合った。エンゾは舌打ちをすると、自分の姿から目を背けるように電気を消した。

暗闇の中、リングに上がる。軽く跳ねながら息を整えていき、徐々にその足取りはタンタンタンタンと正確なリズムへと変化していく。エンゾは両腕を上げて構えると闇を睨み、息を吐くと同時にジャブを繰り出した。もう一度ジャブを放ち、続けてストレートとフックを交えながら、コンビネーションを決めていく。体は信じられないほど軽く、考えた瞬間にはすでに体が反応して動いていた。だがそれでもエンゾは満足できなかった。走っている最中は忘れられたのに、いざリングの上に立つとある光景が何度も何度も脳内を掠めた。

もっと早くもっと強く打て。誰よりも、誰よりも見えないスピードで。その光景を振り払うようにエンゾは自分に言い聞かせ、再びジャブ、フック、ストレートを放ちダッキングをして前を向いた。その瞬間だった。

エンゾはふと、闇の向こうに人の気配のようなものを感じ取った。

動きを止め、暗闇に目を凝らし耳を澄ますと、リングのロープが持ち上げられる音がして、エンゾは思わず息を呑んだ。

リングに、人の形をした、影のようなものが立っていた。白い光を放ち、輪郭は陽炎のようにぼんやりと揺れている。だが不思議と光は眩しくなく、直視できた。

エンゾが立ち尽くしていると、次の瞬間、影は腕を上げて構えてエンゾに向かってきた。殺気のような鋭い空気がエンゾの肌に刺さる。恐怖と驚きのあまり、エンゾは身動きできず、逃げるタイミングを逃した。その場で咄嗟に構えることしかできなかった。

そして、誰だお前、と言いかけてすぐにエンゾの背筋を稲妻が射抜いた。影は大まかなに人間の体をなぞっているだけで、口や鼻などはわからない。だが、エンゾは影の目をハッキリと見ていた。肉食獣の獰猛さと、氷のような冷徹さを含んだ眼差し。目が合うと同時にエンゾの全身から力が抜け落ちた。エンゾははっきりと、あの日の絶望を思い出していた。

――この影は、ケンだ。

影が目の前に立つ。それと同時に顎に岩がぶつかるような衝撃が走り、エンゾの視界が途切れた。


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