第五章:ただ飛び越すだけ
第一章:白い影はこちら
第二章:失ったものはこちら
第三章:長すぎる三分間はこちら
第四章:後退、後退、後退……はこちら
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結局、エンゾが練習場には戻ったのは夜中になってからだった。練習場を出てからはキャンパスを抜けて山道を走り、自室で筋トレをして、ケンの試合の動画を観て、また走り込んだ。何かに没頭していないと、心が壊れてしまいそうだった。
頭も体も限界まで疲弊していたが、部屋が暗くなっても意識が冴えてしまい、眠れなかった。自分の現在地を知るためにも、あの影と勝負しておきたかった。
だが、その日も影は現れなかった。
それから2日間、エンゾは朝6時に練習場に行き、8時まで汗を流した。今は3人に会いたくなかった。会ってどう話せばいいのかが、わからなかった。練習後、3人に会わないと安心する、そんな自分が惨めに思えて、また落ち込んだ。
自分の弱さを振り払うように、夜中まで一心不乱にトレーニングをした。練習量が増えるにつれ、体は重くなっていくばかりだった。思い通りに動かない体に苛立ちが募り、自信はすり減っていく。渦巻く悪循環から出られず、もがくたびに飲み込まれていく。消えてなくなりたかった。影が現れないのが救いだ。きっと今の状態で会ったら一瞬でぶっ飛ばされるだろう。そんな目に遭ったらもう、一生立ち直れない。
決勝戦が近づくのが怖くて、何度も胃液を吐いた。すでに規定体重をクリアしているから減量の心配はないのだが、食事は全く喉を通らなかった。「逃げたい」「怖い」「戦いたくない」という感情がどんどん膨らんでいき、エンゾを圧迫する。
全く眠ることができず、エンゾは大会の前日を迎えた。
朝6時、体に鞭を打って練習場に行き、ストレッチを済ませて練習を始める。体の芯が熱く、時折視界が霞んだ。耳鳴りがして、音が膜を張ったように遠くに聞こえる。ボクシンググローブが鉛のように重かった。それでも何かが見えると信じて、エンゾはリングに立ち、体を動かし続けた。だが結局、秘策は見つからず、体も重いままだった。
8時になるとエンゾは練習を切り上げ、帰りの支度を始めた。ロッカー前のベンチに座り、バンテージを外す。この後の練習メニューを考えていると、突然扉が開いた。
エリーが立っていた。目が合うと、エリーの表情に気まずさが広がっていくのがわかった。
「お、おはようございます」
エリーがこわばった様子で言った。エンゾは右手のバンテージに目を逸らし、挨拶を返した。エリーは少し悩んだのち、エンゾの逆側に進み、鞄を置いて支度を始める。エンゾはロッカーを塞いでいたことに気づき、バンテージをバッグに入れると立ち上がった。会話することなく、ドアに手をかけようとすると「エンゾさん」と後ろからエリーの声がした。
振り返ると、エリーは立ち上がっていた。潤んだ瞳をエンゾの足元に投げかけていた彼女は、頭を下げて言った。
「あの……ごめんなさい」
エンゾが立ち尽くしていると、エリーは顔を上げ、申し訳なさそうな表情を向けた。
「私、知らなかったんです……。明日、エンゾさんとルークさんが大切な試合だってこと……」
エンゾが何も言えずにいると、エリーは遠慮がちにエンゾの様子を伺いながら続けた。
「おじいちゃん、今はオフシーズンだからって言ってたから信じてたんです……昨日ルークさんがポロッと漏らすまで……」また頭を下げた。「大切な練習の邪魔して、本当にごめんなさい」
「あ、いや」エンゾは戸惑った。「頭、あげてください」
エンゾが言うと、エリーは落ち込んだ顔をしていた。その沈んだ表情を見て、エンゾは昔実家で飼っていた柴犬を思い出した。よく悪戯をして母親に怒られていたのだ。彼女は悪気があって練習に来ていたわけではない。本当に、知らされていなかったのだとわかった。
「気にしないでください」
「でも……」
俯くエリーを前に、エンゾは必死に声を絞り出した。
「むしろ、自分も、気まずい感じにしてすみませんでした」
エリーは黙っていた。どうすればいいかわからなかったが、とりあえずエンゾは気を紛らわせようと、話題を変えることにした。
「こんな時間から、もう練習するんですか?」
エリーは顔を上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「もっと練習したいって思ってたら、少しずつ来る時間が早くなっちゃって」
「そうなんだ。随分と熱心ですね」
つまらないことしか言えない自分に嫌気がさした。エリーが言った。
「私、運動ってちゃんとしたことなかったんです。今年の春に始めたんですけど、辛さを乗り越えた時の達成感というか、自分ともっと友達になれる感覚がすごく好きで。キックボクシングはすごく難しいけど、その分、うまくなったら絶対楽しいだろうな、この壁を越えたら、きっとまた違う景色が見えるだろうなって思うんです」エリーは恥ずかしそうに笑った。「だからウズウズして、居ても立ってもいられなくて、早くきてたらこんな時間になりました」
エリーの笑顔に釣られてエンゾも思わず笑った。緊張が弛緩し、脳内を覆っていた霧が晴れていく。彼女の気持ちは痛いほど理解できた。ただ強くなりたい、壁を越えた先の景色が見たい。自分もその一心で練習をしてきたはずだった。殴るか殴られるか、挫けるか挫けないかのギリギリのスリルを、自分は何度も乗り越えてきたのだ。血管が締め付けられるほどの緊張感を、自分は楽しんでいた。その感覚が好きだったのだ。
「明日、ケガに気をつけて頑張ってください」
エリーが言った。エンゾは頷き、両目でリングを見据えた。
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